(2003年1月2日thu)

最終回A
ショウ・マスト・ゴー・オン」

交通量も乏しい丑三つ時の新横浜を、けたたましいサイレンと共に救急車が疾走する。いや、していたと思う。
ストレッチャーにがんじがらめに固定され、仰向けになったまま水平移動している僕には、外の風景などおおよその見当しかつかない。が、そのスピードや時折体中を襲う激しい震動に、夜の町を信号無視する緊急車両の姿が容易に想像出来た。その震動がまためっぽう辛かったのだが、ありがたいことに恐らく事故現場から5分も経たないうちに、救急車は「横浜労災病院」のエントランスに滑り込んだ。
“「夜間救急24時」みたいだなぁ”などと頭の片隅で思いつつも、収まらない鈍痛がやはりメインで、ベットに移されるその挙動だけで知らず呻き声が漏れる。そこに現れたのは、“無精髭・裸足・サンダル・両手はポケット”という何だか典型的に味のある外科医だった。まぁ恐らく日常茶飯事なのだろう、慣れた口調で対応し重大そうな素振など微塵も見せない。(…が、それは多分この人の居る現場のモノサシがデカかっただけで、後日別の整形外科に“コレは重症の部類です”とハッキリ言われた。)結局僕は、自力で2階にあるレントゲン室に歩いて行かされる事に。静まり返り、電気も消えかけエレベーターも動かない院内を、不自由な身体を引きずり案内もないまま一人歩く俺。その一見ガサツな対応に多少「?」が浮かんだりもしたが、それがかえって安堵感に繋がった。“ひょっとしたらコレは大した怪我じゃないのかもしれない。”
…が、検査の結果はやはり冷静に事故の凄まじさを物語っていた。
「胸部打撲及び右鎖骨粉砕骨折・全治4ヶ月」。本番終了後の診察で正式にこの診断名を聞いた時は流石に溜息が出たが、初めてレントゲンを見せられたこの時、外見からは想像もつかない程不自然に変型破壊されている鎖骨に、僕は一発で絶望の淵へと追い込まれてしまった。完全に言葉に詰まった。そして訳も分からず“それは困る”と医者に言ってしまった。とりあえず自分が置かれている今の状況をたどたどしくも説明するも、それを聞いた医者は“中止しなさい”と普通に言った。
“何とかしてくれ”と懇願する俺。
“そこまで大事な事なのか、一生に関わるぞ”と医者。
“(そこまでの決意があるかどうかは分からなかったけど)とにかく止める訳にはいかないんです”と俺。
“じゃあ、医者として勧められないが…”そこまで前置きして医者が言った。
“とりあえず多目に痛み止めを渡しておく…但し、絶対に動かすな”
それが最低条件だった。鎖骨骨折に於いてタブーとされるのは、とにかく動かす事。特に胸をすぼめる様な動きは絶対にしてはいけないと言われた。その為、タスキ掛けの様にして胸を張った姿勢のまま固定するサポーターを取り付けることになった。そして、本番が終わったら必ず入院なり何なり正式な治療を受けるように、それも出来る限り早く、と強く念を押され“帰って良し”とされた。
警察から連絡を受けた両親が迎えに来て、ようやく帰宅を果たす。流石に両親もショックだったのか、最低限の釈明を求めるのみで、説教もなく言葉少なげに僕を介助する。それが何だか自分にはとても情けなく思われ、その後部屋で一人泣いた。それから明日の事を考えて、対策も思い浮かばないまま、とにかく制作主任の菊岡に電話をして事情を伝えた。それからスタッフに連絡をしてもらい、改めて舞台監督の筒井さんに現状を伝えた。そして痛みを堪えながら、必死になって眠った。

翌朝8時半(入り時間の2時間半前)、父親に車で送ってもらいメックスに行く。メンバーの4人と制作の新庄、演助の尾塚君と舞監の筒井さんに集まってもらい対策を練る為だ。筒井さんの中では、尾塚代役案、そして最悪には公演中止案もあったが、幸い僕の意識がハッキリしていて出番も然程多くないという事から、最終的には“小手本人で、但し小手の殺陣部分は全カット”という結論に達した。その事が、早速殺陣師も兼ねる清水さんに伝えられる。当然全体的な演出や台詞にも手を加えなければならず、出演者全員が緊急召集された。肩のサポーターで衣装が着膨れしてしまう為、急遽マントを発注する事にもなった。
関係者の誰もが突然の事態に唖然としつつ、全力で対処してくれた。出演陣も時間一杯まで稽古に取り組み新しい段取りを身に付けてくれた。
僕は最後まで(医者の言う事を無視して)“動けるだけ動きたい”と言ったが、流石に却下された。“ここは堪えましょう。引くのも勇気です。”誰かがそう言って僕をたしなめた。こうして本当に、ホントウに奇跡的に全ての準備が整い、マチネの幕が開けられる目処が立ったのだった。

本番直前になって、有り難い事に開業医でもある菊岡の御両親が駆けつけてくれた。そして痛み止めの注射と座薬を頂いた。
そして本番に挑み、最後の4ステージを乗り切る事が出来た。
本当は、声を出すだけで胸に鈍痛が走ったが、それは言わないようにした。
なんか、それが僕の立場で通せる最後の意地みたいなものだった。
そういうのを典型的な“つまらない意地”っていうのかもしれないけれど、そうする位しか自分の無力感を払拭する術を思い付かなかったし、言ってみればそんな儀式でしか、行き場の無いフラストレーションを消費する事が出来なかった。
皆、優しい。誰の厳しい言葉や皮肉の中にも、やはり必ず優しさが見え隠れする。
それが本当に嬉しかった。そして、ただただ申し訳なかった。だからなのだろうか、正直な話、全ての非を認めつつも全ての善意に対し素直に感謝する気持ち、それだけで清々しく解決出来る程に僕の心が前向きではなかった事も確かだった。
自分が一人では立っていない事。人によって立っていられるという事。
自分が一人では立てないという事。人に立たされているという事。
「肯定」と「否定」が背中合わせで自分の中に渦巻き、僕を混乱させる。
周りのあらゆる出来事が、“成長しろ”と僕の背中をグイグイ押す。
それが「悪い事」のはずはないのだが、「良い事」だと無条件で享受出来るほど、多分僕は人間が出来ていないのだ。
公演が無事終わり、今にして思えば、今回程その事を強く感じた事はなかった。
いや、むしろアノ事故以来、その事を感じずにいられた日は無い。

「生きる」って事は難しい。
でも、「生きて」て良かったと心から思う。
誇張でも美化でもなく、僕は色々な「偶然」の積み重ねによって「生かされ」ている。
多分、“考えろ”って事なんだと思う。
僕の尊敬する恩師の一人が何かを引用して、こう言っていた。
“「生きる」ことは「考える」ことだ。”と。
せいぜい悩んで、もがいて、何度も失敗して、何か傷付き、誰かを傷付けて、甘えて、時々逃げて。
そんなダメな事を繰り返しながら、生きて行こうと思う。
“頑張ろう”とは思わない。
その代わり、“このままでいい”とも思わない。
多分、自分でも何が「正解」かは分かってる。でもそれが自身に伴わない限り、その「正解」は結局持て余すストレスでしかない。
だから、無理に追い求める事なく、かといって納得する事もなく、その時々を「考えよう」と思う。

それさえ止めなければ、いいんじゃないかなって、日々、徐々にくっ付こうとしていく骨を感じながら…。

【the END】


-今回の“X線”写メール-

おそらく史上初!「
レントゲン写真」を更に写メーる!(事故当時)
右の鎖骨。本来は緩やかなカーブを描く筈の部分が、完全にクランク状に。
一本の骨が三つに折れ、しかも真中が縦に割れて二本になっている。さすが「粉砕骨折」。痛ッ!